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2016・9・15 ダイジェスト版 レクリエーション介護士の日記念イベント
基調講演「レクリエーションの未来」 ~私は何をしたらいいのか~
徐々に水分を飲んでもむせるようになってきました。
痛み止めの麻薬性鎮痛剤の副反応です。
痰が溜まっても上手に吐き出せず、呼吸をするのにゼイゼイと音がします。
自ら吸引を希望し、看護師の方の協力は多大です。
タイミングを合わせて、痰を引きます。
吸引時は一時苦しくても、その後楽になるとのことで、父の選択です。
2つ目は、動脈瘤の出血による激痛です。
昨日午前中は、30秒、2回ほどの出現でした。
しかし昨日夜からは、数分間続く激痛が5回も6回も繰り返します。
さらにインターバイルは、5時間ほどでしたが、今や3時間ほどで次の痛みの波が押し寄せてきます。
主治医は、何を食べてもらっても良いですよとおっしゃって下さいました。
むせはあるものの、毎晩食べていたアイスクリームを食べてみることにしました。
私がバニラアイスを買ってきました。
「バニラアイスよりアイス(かき氷系)の方が良いかもなぁ」
父がそう言いながら、半分ほど食べてくれました。
この後の吸引では、しっかりとバニラアイスが引けました。
それでも、病院の皆様のご協力に感謝でいっぱいです。
一つひとつが思い出に刻まれます。
父は今でも会社を経営しています。
4年まえに株式会社を閉じ、個人事業主として継続してきた、アルミ金型材の加工及び販売の仕事です。
実質、父の指示を受けながら、私が活動していました。
本日父は、長らくお世話になった関係先に自ら電話で連絡し、今後についての引き継ぎをしてくれたのです。
もう残された時間は半日です。
酸素を投与していても、呼吸が安定しない父です。
それでも自ら電話をすると言ってくれるのです。
それは残された私が困らないように段取りをつける為です。
電話で話し始めると、急激に酸素濃度が下がってきて、ステーションの看護師が飛んでこられました。
それでも父は話し続けます。
看護師の方が気を使い、そっと酸素のℓを上げ、対応してくれます。
徐々に呼吸が安定し、滑舌がはっきりしてきます。
目が爛々と輝き、アドレナリンが高まっているのがわかります。
私たち娘は、声量が途切れないように、父の腹部を押さえます。
要するに会話をアシストするのに、腹圧をかけるのです。
1人目、2人目、3人目、なんと全員に連絡し終えたのです。
「これでいいやろ、ここから先はお前で出来るな」
今までお世話になった方々への感謝を形にする、義理を通す、これが父親の流儀でした。
どうやら、痛みの兆候が出てしまうと、大きな痛みにつながり、その波を避けることは出来ないようです。
調子の良い時間を継続させるには、前もっての麻薬投与、今で言えば3時間を目安に試みてくれています。
ただ、痛みの間隔は確実に短くなってきています。
とにかく痛みの兆候が出そうになったら、すぐにショットで痛み止めを入れてもらえます。
ここまで厳密に対応して頂けるのは、病院ならでわのメリットです。
本日主治医の先生から、痛み止めのコントロールに加え、ウトウトする薬を使うことにしますか?とお話をいただきました。
ぼ〜と眠っていくお薬です。
「はい、そうしてください」
父の返事でした。
今は、穏やかに呼吸して普通に会話をしています。
全てをやり切ったようで、全て父の選択です。
その後、2人きりになった時、私が父に言ったのです。
「パパ、もう目が覚めなくなるかもしれないよ」
「うん、もうすることしたやろう」
「そうね」
「でももう、私と話せなくなるよ」
「そうやな」
「あのね、明日、明後日と私は出張なの」
「そっか」
「だからね、もしかしてもうお話ができないかも」
「そっか、全部は言わんでいいよ、お前の気持ちは分かってる、今まで良くやってくれた」
私が泣きながら言うと、ポンポンと私の頭を撫でるのです。
「そっかぁ、明日と明後日か」
父が言います。
この夜は、妹が泊まってくれました。
私が見てるから大丈夫と言ってくれます。
「パパ、明日とりあえず夜は戻ってくるね」
「うん、待ってるよ」
朝一番
「朝刊を買ってきて」
「わかった」
これが家だと、朝刊取ってくれ、夕刊取ってくれの言葉に変わります。
父はどんな時でも新聞を読みます。
この状態でも興味は衰えないようです。
しかし読んでいた途中です。
「ちょっとしんどくなってきた」
「ベッドを横にしてくれ、少し寝る」
そこから段々と痰の絡みが強くなります。
自力で出そうにも出ないので、苦しそうです。
頻回に唾液を吐き出し、そこには血がまじっています。
「吸引してもらう?」
私が父に問いかけます。
吸引は苦しいので嫌がるかしらと思ったのですが、やってみるというのです。
自分から積極的に口を開け、看護師の方が実施してくださいます。
当然実施中はしんどいですが、やれば楽になるので、これは良いと言います。
何事も嫌がらず、チャレンジ精神の父です。
先入観を持たずに進めてみるものだと感じた出来事でした。
昨日より少しレベルがダウンしているなと感じました。
昨日に引き続き、兵庫県温泉町の地元から4番目の長女と5番目の4男と奥様が面会に来てくれました。
昨日と同じで、まだまだ話せることに、驚かれます。
「母親は何歳まで生きた?」
「93歳や」
「父親?」
「88歳や」
「唯一の後悔は、親の歳を越えれなかったことや」
「そこが申し訳ないなと思うところや」
そこに主治医の先生が診察に来てくださいました。
緊急入院後では、初診察です。
父が絶大な信頼を置いている先生です。
「井上さん」
先生の顔を見ると、微笑んで父が言います。
「先生、とうとう来ましたわ」
「そうですか」
「今は痛みは?」
先生は、膝をついて父と目線を合わせ、父の事実を包含してくれるような温かい言葉を続けます。
「これだけは順番ですね」
「誰もがいつかは、おやじやお袋に会いにいくんですよ」
「ぼくらに出来ることは精一杯させてもらいますね」
「こんなにご家族がいらして、幸せですね」
「はい、先生」
「僕はね、井上さんから学びました」
「下半身が動かなくなった時も、前向きに生きる、囲碁を楽しんでいる姿を見て、僕もこうなりたいと」
「なかなか、出来ないものですよ」
「井上さんの人徳ですね」
父と先生の会話を妹弟が聞いています。
はっきりと、誠実に父と向き合ってくれている先生を見ていいます。
「いい先生だね」
「日常で自分が知っている先生像とは全く違う」
「正直に患者にも向き合い、信頼し合っている」
この後も、昨日訪問の孫と孫の義母様、再度訪問の3男が来てくれました。
同じく昨日号泣されていた郷土人会の方からも電話をいただきました。
昼から、一時的にショットで痛み止めの量を増やしました。
痛みを取り除くことを、医師と看護師の連携でサポートくださっています。
家に着いたのは、朝の5時半。
まず最初に取り掛かったのは、洗濯物です。
洗濯機を2度回し、その間に部屋の掃除をしました。
眠いはずなのに、全く寝れません。
自分の身の回りが荒れていると、心が整いません。
今までも、どんなに忙しくても、定期的に清掃することで、その気持ちを整えてきました。
淡々と日々のルーティンをこなして、8時過ぎには、再度病院へ戻りました。
到着する寸前から、痛み止めにフェンタニル注(麻薬性鎮痛剤)が始まっており、少しウトウトしていました。
「あ〜この状態かぁ、覚悟してたけどなぁ」
これが私の感想です。
ところが昼前にあれ?あれ?
痰を吐くのに、ギャッジアップをしたところ、目を開き、段々と覚醒してきたのです。
「痛くないの?」
「2くらいかな」
さらに1時間が経過します。
「新聞買ってきてくれ」
「もう、囲碁は行けないのか?」
本当に、今から起きて帰れそうなくらいの活気を感じ、笑い声が聞こえます。
通常、動脈瘤破裂だと24時間くらいで亡くなるケースが多いのです。
しかし父の場合、亀裂部分が一時的に血液の固まりで止まったのです。
これは珍しいケースのようです。
そしてここから忙しく面会が始まるのです。
東京から3男が駆けつけてくれました。
孫夫婦、奈良から次男と立て続けです。
「いよいよ逝くわ」
父が微笑みながら迎えていました。
電話で聞いていた姿とは、大きく異なっていただけに、皆さん驚きを隠しきれません。
それぞれの皆さんが、思い思いを語ってくれます。
「よかった」
「ほっとした」
「何、元気やん」
まるで、まだまだいけそうな、そんな勘違いをさせてしまうほどです。
「また、兄弟会しようよ」
兄弟が語り掛けます。
「そうしたいけど、そういう訳にはいかないんや」
「血管が破れててな、今は、かさぶたが出来てるだけや」
「これが外れたら、最期やからな」
父が答えます。
「自慢の兄弟やった」
「ありがとうな」
父が、それぞれ掛けつけた兄弟に話していました。
夕方、父親を慕ってくださってる郷土人会の役員の方から電話がありました。
父が今の状況をお話しすると号泣です。
「いやや、いやや、早すぎる」
「まぁ、そう言っても、これだけはしゃあないなぁ」
「最初から来るのが決まってたからな」
「ありがとうな」
「また、明日も声を聞きたいから電話していい?」
「しゃべれたらいいよ」
父の元気は続きます。
夕方、この調子ならどうしても、電話をしたいところがありました。
それは、長らくお世話になっていた囲碁の先生です。
先生も号泣してくださいました。
「もう、お話しできないと思ってました」
「昨日お昼間はお元気だったのに」
「今日聞いて、本当に驚いて」
「そう言わず、待ってますよ」
「井上さんが心の支えだったんですよ」
「先生には本当にお世話になったな」
「この恩は忘れへんよ」
その後、仲の良かった囲碁仲間お二人からも電話をいただきました。
電話の向こうで、男泣きの声が聞こえます。
父は穏やかに声をかけます。
「あんたには、ほんまにお世話になったな」
「トイレにも連れていってくれてな」
「本当にありがとうな」
人には心残りの出来事があります。
これを専門用語では、未完了の状態とも言います。
例えば、あの時しておけば良かった、あの時謝っておけば良かった、そう思いつつ出来ずじまいで過ぎてしまう出来事です。
その一つの例が、人と人との最期のお別れ、多くのケースでは、突然やってきます。
あの人が入院した、あの人が来なくなった、あの人が亡くなった。
そう、昨日までいた人が、今日は会えない、話せなくなってしまうのです。
今回の父も、そうなっていてもおかしくなかったのです。
多くのケースは、そのまま亡くなってしまいます。
今回は、神様が与えて下さったのでしょうか。
だから私は、奇跡の時間と呼ぶことにしました。
それぞれの人と直接お別れが出来、「サヨナラ」を決心してもらえる時間なのです。
夜間救急の待合室です。
何度この景色を見たことだろう。
今日は、以前とは違う心境です。
理由は、今度動脈瘤が破れても、手術はできませんと言われていたからです。
当然と言えば当然です。
胸部大動脈瘤2回、腹部大動脈瘤2回の手術後は、生身の血管がないくらいステント等で覆われています。
そして圧は、弱いところ、弱いところを狙って悪さをします。
父の病巣は、身体の中枢の奥深い部分にあり、手術となると大掛かりで、年齢的には耐えられないだろうとのことでした。
前回の手術後の回復でも、急性期、回復期と合計半年間のリハビリが必要でした。
何のために手術をするか、それは、その向こうに見える次の生活が描ける時です。
今回それは望めない、それは本人と家族が一番良く分かっていました。
2時間後、救急外来の先生から告げられた検査の結果は、やはり胸部大動脈瘤からの出血でした。
とうとう、この時がやってきたと、医療者である私ながら、再認識させられた瞬間でした。
「入院が決まり、病棟へ移動しますね」
通常の痛み止めで少し痛みがおさまったようです。
「家族はいるか」
処置室から出てきた父の声が聞こえました。
先ほどの七顛八倒の様子から、救われた声がします。
ここから先、父に残された時間は、私たち家族と共有するために与えられたものです。
後、どのくらいあるのだろうか?
今日?
明日?
病棟のベットに横たわり、父が改めて言います。
「来る時がきたんや、ハハハ」
「そうみたいやね」
「怖くないの?」
「何が怖いねん、全くや」
その会話を聞いて、点滴を調整してくれていた病棟の看護師も穏やかな笑顔を向けてくれました。
とりあえず、この日は母が残ることになり、私たち姉妹は家に戻りました。
朝の5時、夜明けの景色が現実を実感します。