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2016・9・15 ダイジェスト版 レクリエーション介護士の日記念イベント
基調講演「レクリエーションの未来」 ~私は何をしたらいいのか~
「寝てるって辛いわ」
「私はパパみたいに頑張れない」
ふと、母が天井を見ながら、5月に亡くなった父のことを振り返ります。
自分の体が動かないことが、こんなにもどかしいとは、思っていなかったと呟きます。
本日で放射線治療3回目、副作用の症状が出てきて昨日からやる気がでず体がしんどいのです。
ご飯も食べたくない、病院の食事は美味しくないと言います。
リハビリ後のぐったり感は、確かに副作用を思わせます。
「こんな状態でもパパは毎日動いてたもんね」
「いや、本当にすごい人やと思う」
「そうやんね」
「いつも夕方は散歩に行ってたしね」
世間的には、一人で歩かせるのは危ないと評価を受けるレベルの父でした。
それでも誰かがついていかなければいけないと、気を使うし毎日という訳にはいきません。
歩けなくならないように、毎日毎日近所の向こうに散歩に行っていた父でしした。
「私自分がこんな風になると思ってなかった」
「なってみてわかるわ」
「そうやね」
「パパがよく言ってたでしょう、なってみた人にしかわからんのや、そう急がせるなと」
母がふと笑います。
「ほんま、悪いことしたわ」
「あの人よう頑張ったよね、最後の最後まで」
「パパみたいに死ねるんかな」
「パパみたいな死に方をしたい」
「もう生きることに未練はないからね」
「以前はもっと生きようと思ってたけど、今はそうでもない」
「ん〜」
父は宣告されていた大動脈解離がおこり、5日後に亡くなったのなです。
「ルミ子、もう十分や」
「お前はよくやってれた」
今も父のその言葉を思い出すたびに、母との時間も後悔がないようにしたいのです。
「私もパパのように・・・」
激変した自分の現状にしみじみそう言うのです。
今、母ののぞみは、最後に残された時間、それを家族と過ごすことだと思います。
昨日病院からは、次の生活についての話がありました。
5日間の治療が終了し、体調が戻ればこの病院での入院理由は無くなります。
今回の治療評価は、一月後のMRI検査のため、それまで、特別な治療をすることはありません。
体調が戻れば、12月中旬には退院を迎えることになります。
「在宅へ戻られることを検討されているとのこと、一人になる時もあると伺っています。」
「関係者で、今のお母様のレベルを考えてみました。」
「退院後は、リハビリ病院や施設という選択肢もありますがどうお考えでしょうか。」
母は、何も言わずに頷いています。
何も言わないのではなく、言えないのです。
在宅に戻りたいとは言えない母。
それは、一人でできないことを痛感しているからです。
自信がありますか?と聞かれたら、答えは「ない」でしょう。
つくづく自信とは、周りが作っているのだと実感します。
在宅に戻りたい、でも夜一人になるのは不安、だから選びきれない、これが本音だと思います。
今の母は、右腕が全く動きません。右の足も非常に不安定です。
少しづつ、動けなくなっていくことも自覚しています。
この状態で、リスクに立ち向かえる人はいないでしょう。
一方、しんどい治療の選択をしたのは、在宅へ戻り、家族との時間が待っているからです。
自宅の庭を見て、自分を感じたいからです。
「家族としては、在宅介護を希望します」
「そのための準備に入りたいと思ってます」
私の返事でした。
私のこの言葉が、父の時と同じように、最後まで母らしい人生に繋がればと思います。
なぜなら、娘たちの父への介護は、そばで見ていた母が感心するほどです。
「ママ、やること、工夫することいっぱいあるよ」
いよいよ、私の出番です。
現在の病院でも、同じ治療が継続します。
点滴と内服薬で、少しづつ良くなってきています。
麻痺の右腕が脱臼するかと思うくらいブラブラしていました。
今は、少しだけ腕が持ち上がるようになっています。
右側のことをどうしても忘れがちになります。
そのため、ベッドに横になる時も、ゴロンとすると右腕が背中に敷かれてしまいます。
リハビリの先生からは、右を見て、右側に腕があることを確認して寝るようにとのことです。
「はい」
「褒められると、がんばれます」
いつもの笑顔で対話しています。
「パパと同じになっちゃった」
「もう少し時間があると思ってたのに」
現実を受け入れつつも、心の声を吐露する母です。
「そうね」
「退院したら、また旅行行くよ」
「うん、行きたい」
現実が変えられないなら、今歩みを止める意味は1ミリもありません。
なぜ治療しているのか
なぜリハビリしているのか
なぜ笑顔になれるのか
普遍的なことは、今この瞬間でも幸せを求めていい、それは本人を含め私たち次第だということです。
全能照射4×5回がスタートしました。
一般のがんと違い、メラノーマ起因なら効果はそれほど期待できないかもしれません。
しかし、腫瘍そのものを減少させる治療はこれしかありません。
どちらにしても、チャンレンジする意味はあります。
副作用として脱毛は避けれらないが、照射量が高くないため、吐き気や体調不良に至るかは別問題です。
母
「脱毛は全く気にならないねん、むしろスキンヘッドでいいよ」
「かっこいい気もする」
「可愛い帽子を買いにいきたいわ」
「そうね」
「○○ちゃんに、スキンヘッドにアートを描いてもらうかぁ」
「それもいいな」
「すごくしんどくなければやってもいいなぁ」
「ただ、美味しいものも食べれなくなるのは嫌やなぁ」
「でも、少しでもあなたたちと一緒いれる時間が欲しい」
そう言って、治療を承諾しました。
私たちのために、チャレンジをしてくれたのです。
父もそうでしたが、人生ここから先の時間は、家族の納得に時間をくれるのだと感じました。
親と子の愛おしい時間です。
搬送先の大学病院が決定し連絡があります。
その情報を、大阪で連絡を待っていた妹に伝えます。
妹は、すぐさま新幹線に乗って現地に向かいました。
20時前に病院に到着し、治療にあたってくださった先生から結果を聞きます。
診断名は脳腫瘍ということでした。
CTには、はっきりと2つの大きな影と微細な影が点在。
早々、腫瘍周辺の浮腫を軽減する治療がスタートしました。
担当医師は、本格的に治療する為の希望場所を妹に尋ねてくださいました。
妹が、今後のことを考えて、大阪の病院を希望します。
もともと母にはメラノーマを治療している病院があります。
先生からも、大阪の同じ病院が良いというアドバイスをいただきました。
先生
「一刻も早く移動することをお勧めする」
妹
「はい、大阪の病院には先生からご連絡いただけるのでしょうか」
先生
「こちらからさせていただきます」
「主治医への連絡と脳神経外科への紹介状も必要だと思いますので」
結局、九州の病院にお世話になったのは2泊3日。
夕方に搬送され一泊、次の日も一泊し、翌早朝の出発でした。
妹いわく、ご飯を食べてても寝てしまう。
ウトウトし呂律が回っていないようで、ぐたっとしている時間が長い。
そうかと思うと、シャッキとする時もある、とのことでした。
この状態で大阪に連れて帰ることは可能なのか?と思ったそうです。
2日目の夜、少しはっきりとしてきました。
グリセリン点滴の治療、ステロイド(ベタメゾン錠)の内服薬が効きはじめたようです。
あれだけ痛がっていた腕の痛みも軽減してきました。
医師と相談し、医療ソーシャルワーカー(MSW)が、早急に移送の手配をしてくださいました。
病院から新幹線の駅までの介護タクシー、個室の新幹線、新大阪駅から病院までの介護タクシーのアレンジです。
九州の拠点病院でもあり、旅行者のハプニング、このような入院対応は、幾度も経験されているようです。
妹いわく、大変優秀な方だと絶賛していました。
母をヘリで見送って2日後、病院の救急外来で母と再会しました。
私と妹との見事な連携プレーが成立したのです。
「あら、るみちゃん、戻ってきてくれたの」
「皆さん、旅行楽しんでいる?」
「うん」
あの日では考えられない母の反応です。
しばらく入院だからと、自宅に戻ってきてと、色々な指示を出してきます。
家の中の書類関係は、どの棚の何色の袋で何番目にあるなど、全て正解でした。
「記憶力いいな、びっくりやわ」
「当たり前んやん」と笑顔。
その顔を見て、怒涛のようなこの3日間が嘘のようでした。
あの時、部屋で動けなくなった母を見ながら、独り言を言ったのを覚えています。
「これ人生最大のピンチかも」
「どうする私」と。
しかし、多くの方々に支えられ、なんとかここに辿りつけたのです。
「しんどい」
「寒い」
抗生剤など含む点滴がなされ、室温調整しながら、対応くださいました。
バルーンが入ります。
「今から、九州の方へ救急搬送されるからね」
「大丈夫だからね」
ヘリが到着するま2時間半ほどありました。
私自身の準備が必要です。
医療スタッフの方へ、私自身が昼ごはんを食べ、荷造りをしてくることを伝えました。
部屋で荷造りをしていると、内線電話が鳴ります。
ヘリコプターは患者一人しか乗れないこと、荷物は最小限にして欲しいとのことでした。
その意味は、後から分かったのです。
この船には、ヘリポートがありません。
そのため、ヘリコプターがホバリングしながら、患者を釣り上げ機内に引き込んで行きます。
これでは、私が乗れる訳がないなと実感しました。
しかも、母の荷物も救助隊の方のリュックに背負うのです。
最小限の重量ということです。
ヘリコプターから、ロープを使って2名の救助隊員が降りてきました。
母に向かって
「もう大丈夫ですよ」
「わかりますか?」
「今から準備をしますからね」
周囲を見渡し
「日本語の話せる医療者はいらっしゃいますか」
「様子を聞かせてください」
日本人の看護師から申し送りを受けます。
組み立て式の担架をセットし始めます。
速やかに形になっていくのです。
待っている間ヘリコプターは、船の周りを旋回しています。
現場では、医師2名、看護師他4名ほど、旅行関係のスタッフの方々で対応くださっています。
担架の準備が出来上がりました。
「担架に乗せます」
「手伝ってください」
「1、2、3」
母がストレッチャーから、床上の担架に移りました。
雨風を避けるため、シッパー付きの大きな保護袋に入ったのです。
「締めますよ」
「苦しくありませんか」
その間にヘリコプターが定位置にスタンバイしてくれました。
「では、6人で運びます」
「皆さん、手伝ってください」
少し霧雨が降る甲板に母が移動して行きます。
ホバリングしたヘリコプターに合図しながら、母と救急隊1名が、吊り上がっていきます。
もしもの事故に備えて、サイドでは、消火隊メンバーが消火ホースを抱えた万全の体制です。
担架がやや縦長の姿勢で、母が徐々に登っていきヘリコプター入口、中へと消えて行きます。
次に下で待ち受けていた隊員が、全ての荷物を片付け合図をして引き上げて行きます。
隊員が乗り込み、機体の扉が閉まり、一路日本列島、九州方面へと飛んで行きます。
だんだん小さくなるヘリコプターを最後まで見送り、感謝と同時にホッとしたのを覚えています。
後から母に聞いてみました。
大枠の一連の流れは覚えているが、ところどころ記憶が混在しています。
部屋で倒れたことは、あまり記憶にありません。
部屋に看護師が駆けつけてくれたことは、ややうる覚えです。
医務室で点滴やバルーン治療を受け、私がヘリコプターに乗れなないと聞こえたのは覚えていたようです。
しっかり覚えているのは、ヘリコプターの中での会話だったようです。
「もう安心ですよ」
「今から搬送するからね」
「もう大丈夫ですよ」
「2名が付いていますからね」
「そお言って、ずっと声をかけてくださったのよ」
「あれが、どれだけ心強かったことか」
「ヘリコプターを降りてから救急車に乗ったの?」
「ん〜そうかな、多分」
「その時はしんどくなかったの?」
「その時はもう安心してたからね」
「助かるものやと思ってたから」
私は、後から駆けつけることになります。
さりとて、次の日はチェジュ島で、最短で翌々日の鹿児島港での下船です。
母が搬送された九州の病院には、妹が駆けつけてくれました。
その夜を含め、3日早朝には大阪搬送が決まりました。
そのため、私は、鹿児島港から鹿児島空港、大阪空港、大阪の搬送先の病院へ向かうことになったのです。
ふと、母のいない部屋で一人過ごします。
デッキから見上げる夜空は、数日前と変わりません。
でも明らかに変わったのは、母の病気の症状が現れたことです。
そして、この部屋に母がいないことです。
ぼっかりと穴が空いたようで、寂しさが押し寄せてきます。
父親が亡くなった時に感じた感覚です。
でも母はまだ生きています。
明後日には会えます。
だったら、この思いをかき消すほど、ラストスパートを悔いなく走り切ろうと思ったのです。
まだチャンスがある、そう思うことにしました。