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2016・9・15 ダイジェスト版 レクリエーション介護士の日記念イベント
基調講演「レクリエーションの未来」 ~私は何をしたらいいのか~
元旦の朝、いつものように訪問看護師が点滴更新に来てくれました。
体温37.2度、血圧120代、SPO297%。
「体調落ちついていますね」
「胸の音も穏やかです」
「酸素も必要ないかもしれませんよ、少し取ってみましょう」
この日は、ルームエア5分後でも、SPO2は98%で安定していたのです。
「ここ最近で一番落ち着いている状態です」
何とも嬉しい一言でした。
昼に向けて食事の準備が始まっています。
孫夫婦、妹夫婦がやってきます。
とりあえずお墓参りに行きます。
「ママ、行ってくるね」
その間、いとこの方がテーブルセッティングをしてくれます。
昼になり元旦の食事会が始まりました。
まずはシャンパンで父に献杯、母に乾杯です。
アルコールが好きだった母には、スプーンで口にシャンパンを含ませます。
「どう」
「ママ、シャンパンだよ」
30畳ほどのリビングに母のベッドがあり、同じく祝いのテーブルがあり、そこに親族一同8人が集いワイワイガヤガヤしています。
この声が聞こえてないはずはありません。
こんなにいつもの日常の風景が尊いと感じたことはありません。
19:00
呼吸が荒くなり体温を測ると38.9度、早々カロナール坐薬400mgを使います。
SPO2は88%とダウン、酸素流量を1.5Lから3Lへ上げて98%を維持します。
19:30
体温38.3度、しんどそうなので約1本分のアンペック坐薬を挿入します。
20:10
酸素の流量を4Lに上げて体内の酸素濃度を維持します。
21:00
酸素流量を4.5Lへ。
21:30
血圧81/41
23:00
血圧60/40
血圧が下がってきたので、訪問看護師へ状況を伝える電話を入れておきます。
「血圧が下がってきています」
「肩呼吸が大きくなってきています」
「今晩か明日か、またご連絡させていただきます」
家族がベッドを囲み、それぞれが声をかけます。
手を握ると握り返します。
「スースー(母の愛称)、聞こえてる?」
誰が見ても、しんどそうです。
誰も離れたくないようです。
1月2日
1:00
血圧63/47、SPO293%、酸素流量5L
2:00
血圧69/44、再度緑色嘔吐ありましたが、それ以上の変化ありません。
みんなへ、おそらくここ数時間で変化はないだろうから一旦寝るように伝えました。
近くの家族は家に戻り、全員が睡眠を取ることにしました。
6:30
血圧85/53、酸素98%。
遠方の家族は、この数値を確認後、一旦戻り身支度をして、再度全員が集合したのが11時くらいでした。
10:00
訪問看護、体温38.4度、血圧94/64、SPO293%。
すでに下顎呼吸が始まっており、点滴の継続判断について相談がありました。
妹は、少しでも入れてあげたい気持ちはあったようです。
そこで私は、排尿の有無の確認を提案しました
毎回尿量が認められていたパットは全く濡れていませんでした。
既に14時間、昨日の急変から腎臓の働きが止まっています。
妹も納得し、留置針も抜きました。
体にむくみのない、綺麗な状態です。
13:00
状態に変化はありません。
各々の家族が横になり、起きているのは私を含め2名だけです。
血圧88/60、SPO290%、脈拍125回、体温36.0度。
「この状態で安心していると呼吸が止まっても気づかない時があるの」
「だから、この段階になると、15分、30分おきに見ないと見逃してしまうかも」
そんな会話をしながら、口腔ケアをしていたのです。
最初は口腔ケアのスポンジを噛んでました。
「ママ、噛まないでね」
「朝から目を開けてるけど閉じていいよ、乾燥するよ」
点眼し目を閉じようと試みますが、閉じません。
そんなやりとりをしている間に、ふと、急に呼吸が止まったのです。
え?止まった?
さっきまで、しっかりと血圧があったのにまさかそんなはずは・・・私の内心です。
そう思った後に、再び大きな呼吸が始まりました。
「呼吸が止まるから、みんなを呼んで!」
2階から降りてくる家族のスピードがこれほど遅く感じたことはありません。
思わず、階段下に駆け寄り叫びます。
「○○ちゃん、早く降りてきて、呼吸が止まる」
そう、私はどうしても孫の○○ちゃんに、最期の瞬間に立ち会わせたかったです。
父親の時も遠方にいて間に合わずスマホ中継に終わったからです。
全員がベッド周辺に集まりました。
母の呼吸は、数秒ごとに現れ数回繰り返されました。
「スース」
「ママ」
「手を握って」
それぞれが精一杯声をかけます。
13:40
最後の呼吸をした後、あれだけ見開いていた瞼がそっと閉じたのです。
そして口角が少し上がり微笑んでいます。
その後、母が再び呼吸をすることはありませんでした。
多くの人に「化粧をしているの?」と聞かれるほどピンク色だった母の唇の色は、静かに白へと変化していったのです。
「瞼を閉じるのを見た?」
「うん」全員が頷いてくれました。
そうです、皆が見守る中で旅立っていったのです。
医師や看護師の方が訪問くださり死亡診断時刻は15時前。
先生いわく、多くの在宅での看取りに立ち会うが、最期の瞬間に立ち会える家族は本当に珍しとのことでした。
1割か、多くても2割はありませんと。
在宅介護の時間は家族にとっての日常です。
当然ですが、何かをしている時、寝ている時があります。
そのため、気づいたら終わっていたというケースが圧倒的だそうです。
確かに父の時は、持続モニターが異変を知らせて、看護師が病室に飛んできてくれました。
そばにいた私たちは、下顎呼吸が続いていたので、その変化は見てとれませでした。
それからまもなく最期の瞬間を見送ることになったのです。
そう考えると、在宅ではモニターがない中、それを見極めるのは至難の技です。
なんとなく母は狙ったのだと思います。
13:00で私が近づいたのを見計らい、今この時を見せてくれたのかもしれません。
きっと私が、慌てて孫を呼び最期に間に合わせるだろう行動を読んでいたのでは・・・
私にはそう思えてならないのです。
私の思いを叶えてくれました。
体位交換で首を右から左に動かした時、眉間に皺が寄りました。
「ごめん!」
つい、急に動かしてしまいました。
私たちでも同じ姿勢を長く続けて、急に動くと筋肉や筋が固まり痛みが生じます。
痛いはずです。
表情が語っているのです。
12月29日(日)、腹部を摩る動作が連続します。
この時はまだ水様便が続いています。
バイタルは、体温37.4度、血圧140代、SPO298%。
タオルケットを剥ぎ、動かないながらも全身で症状を訴えているようです。
手を天井に上げ、何かを掴もうとするような動きが見られます。
「ママ」と声をかけ握ると、左手に力が入り、聞こえていることがわかります。
今までとは違う表現であることは確かです。
疼痛緩和としてジクトルテープ75mgを一枚貼りました。
この貼付薬は継続して貼り続けることが必要です。
12月30日(月)朝、同じようにお腹を摩るので、もう1枚貼りました。
しかし血中濃度が安定し、効果が最大化するまでに約1週間はかかるようです。
この日は排便はありませんが、お腹を摩る行動は続きます。
ここから先は、痛み止めをしっかり使う段階です。
麻薬系剤のフェントステープ0.5mgも貼りました。
ジクトルテープよりさらに効果があります。
しかし効果は、血中濃度の安定まで2、3日かかります。
両方とも24時間ごとに張り替え、継続していく薬です。
そう思うと、ジクトルテープは、もう少し前から貼っておいた方が良かった薬です。
腸の音が「グルグル」とはっきりと聞こえました。
やはり痛そうなので、麻薬系のアンペック坐薬10mgを1/3だけ入れました。
翌日、12月31日は排便もなく、痛みもなく穏やかな状態で、モーニングケアを受け入れていました。
しかし、夕方顔をしかめ始めます。
そのため、アンペック坐薬1/2を挿入しました。
1月1日も穏やかに過ごせ、夜にアンペック坐薬(カットした残の約1本分)を使用したのが最後でした。
結局、麻薬系は、オプソ内服液5mg1包、フェントステープ0.5mg4枚、アンペック坐薬10mg2本だけ使用したことになります。
疼痛管理では、単に寝かせてしまうのではなく、痛みがなく、意識があって穏やかな状態を目指していました。
父が病院でショットを徐々に増やしながら、コントロールしたのを思い出します。
苦しくなく、かつ私たちの話し声が聞こえている、そんな状態です。
使いすぎると、深い睡眠に入り目覚めることはなくなります。
苦しんでいるかといえば、その段階でもない微妙な状態でした。
ガン性疼痛がさほど無かったことは、母にとっても私たち家族にとっても幸いでした。
18日以降、目覚めることが無くなった母です。
自分では想定外であり、本意ではないはずです。
まだ少し、あとちょっとだけ自分を表現しようと思っていたはずです。
開眼しますが、話しはできません。
こちらから、話しかけケアし続けます。
しかし1度だけ、口腔ケアの歯茎をマッサージしている時
「痛い」「痛い」と小さな声が聞こえました。
「え?」そばにいる妹と確かに聞いたのです。
ちゃんとここに母がいるんだと実感した瞬間でした。
脳腫瘍で、右腕・右足には完全な麻痺が現れました。
左足も動きが悪くなってきています。
開眼、閉眼に関わらず、外見的には反応が乏しいです。
少し追視してくれているのだろうか、そのような期待を込めて見るとそう見えなくもありません。
そのくらいのレベルです。
しかし左手だけは、今まで通り動くのです。
手を持つと、反射的であれ握り返してくれます。
「ママ」と声をかけると、これまた握り返してくれます。
お腹が痛いのか、お腹を摩ります。
表情に変化がなくても左手動作から、カイロを貼るなどの対策が取れるのです。
まさに、左手が話すというのが、私たちの合言葉になっていました。
年末が近づき、家族が家に集うことが多くなりました。
リビングには4人が集まり、孫が洗顔後の化粧水を塗っていた時のことです。
妹は、この日母の調子がいいなとは感じていたそうです。
左に立っている妹、右に立っている孫に顔を向け明らかに追視していたようです。
それだけも嬉しい変化です。
実は、20日(金)血圧が220代になって以降、右の眼球は縮瞳したままです。
左のみ緩慢ですが対光反射が見られる程度。
これが脳内の様子を表しています。
この頃からさらにレベルが下がっていたのですが、この日は調子が良かったそうです。
そのような中、右に立っている孫を凝視して・・・
「○○ちゃん」
なんと、一言発したのです。
低い声ですが、周囲の4人が、はっきりと母の声を聞き取れたのです。
先生いわく、医学的にこの段階での発語は奇跡とのこと。
「痛い」という言葉は、動作から発するもので長年の習慣化した延長です。
ましてや、その言葉はまだ対光反射があった段階での発語です。
一方、名前を呼んだ、呼べた、というのはどういう意味があるのでしょうか。
これはある対象を呼ぶという、意思が表示されたということです。
なぜそれが起こり得たのか?
そう、母が最後の力を振り絞れたのは・・・
目の前に可愛くて仕方のない孫がいたからです。
腫瘍で頭蓋内が圧迫される中、残されたわずかな脳の機能を全集中させたのでしょう。
まさに最大の愛情表出をやってみせたのです。
そのことで、”確かに私はここにいるのよ” が私たちに伝わってきたのです。
命ある限り、そこに意思が存在するのです。
20日(金)、嘔吐を繰り返すので、顔は左右のどちらかに向けた対策をとります。
初回の嘔吐も左に向いていたので誤嚥は免れました。
上を向いた場合、自分の吐いた吐物を自分で吸い込むと、窒息や誤嚥性肺炎の原因になるからです。
このころ血中酸素濃度(以下SPO2と表現)93%代を示すことが多くなりました。
看護師が提案してくれ在宅酸素を1Lからスタートすると、98%となり呼吸様相が楽になりました。
また誤嚥性肺炎の対策として、徹底的な口腔ケアを行います。
この時はもう、点滴のみで食べることはありません。
そのため、口腔内は細菌が繁殖しやすくなります。
食べない、喋らないからこそ、口腔ケアが重要になってきます。
1日5〜6回実施。
おかげで聴診器による胸の音はクリアで、肺炎の症状はありませんでした。
この夜、初めて体温37.8度となり、アセトアミノフェン坐薬を挿入し抑えました。
21日(土)の朝方を最後に嘔吐がおさまりました。
しかし22:00ごろ次は、眼球が黄色で内圧が上がっているように目を見開いています。
おかしいと思い血圧を測ってみると、220代と今までにない値です(140〜170代を経過)。
脳内の変化が考えられるこの段階で、血圧を下げる治療はありません。
自然に下がるのを待つしかありません。
そこで、少し上半身をギャッジアップしました。
呼吸も少し苦しそうなので際素流量を1.25Lから1.5Lへ上げました。
しきりに腹部に手を当て、お腹を摩る動作が見られたので、お腹の違和感を感じているようです。
嘔吐が続いていた中、逆に排便がみられず腸閉塞を疑うなど気になっていました。
とにかく痛みを和らげるのに、低温やけどに気をつけながら、腹部にカイロを貼ってみました。
体全体を3点クーリングで冷やしながら、腹部はカイロで温めている状態です。
23日(月)、緑黒色の水溶便が少量出現しました。
血圧も140代と安定してきましたが、今度は39〜40度近い高熱の出現です。
バイタル維持中枢そのものに問題があるからか、坐薬の効果が期待ほどではありませんでした。
外見上は、寝ているようですが、高熱なのでしんどくないはずがありません。
そこで全身のクーリングを施します。
首下、右脇、鼠蹊部、首の頸動脈付近にアイスノンを用います。
太い動脈を通して、直接温度を下げると体温も下がります。
訪問介護、訪問看護の時間、それ以外は家族が、適宜クーリングを更新していきます。
数日経過すると、様子がわかってきます。
坐薬もそれなりに効果はありますが、やはりクーリングが一番です。
何もしなかればすぐに38度になりますが、クーリングを継続することで、37度前後が保てることを発見しました。
そのため、常にクーリングすることで、37.2度前後が母親の安定した状態となりました。
これだけ発熱すると、体内に取り込まれる水分(点滴)は貴重です。
点滴は、できるだけ少量で長時間をかけて体内に入るよう、滴下を夜中に終わるよう調整します。
点滴といえば、血管を保護することが重要になります。
留置針とはいえ、長く留置していると点滴液が漏れ、新しい血管を探すという繰り返しです。
退院時はツインパルという糖、電解質、アミノ酸、水分を補給する輸液剤を使っていました。
これで抹消点滴から取るカロリーとして400キロカロリーほどです。
一方現在使用中のソルデムは、水と電解質(イオン)を主成分とした輸液剤です。
ツインパルのように、ブドウ糖の濃度があると静脈炎のリスクが高くなります。
浸透圧の差が血管内皮を刺激するからです。
そのため、点滴で長期的に高カロリーを取ろうと思うなら、中心静脈栄養(IVH)となるのです。
母親の場合、命の綱である血管というルートを保護する必要があります。
そのため退院時に、ツインパルからソルデムに切り替え、食事でカロリーを摂ることを期待しました。
結果この段階では、食事を食べることもできていませんが、だからこそ、余計に血管を大切にしながら補液と脳浮腫治療の目的に専念できたのです。
それでも、幾度か点滴液が漏れ、徐々に血管が少なくなってきています。
そこで狙った血管は肘正中の静脈です。
太くて安定しますが、曲げるリスクがあります。
そこで、牛乳パックを活用してシイネ固定で様子を見ます。
紙なので程よく変化し、軽くて角もなく、特に体位交換時に気づかず肘が曲がるという動作から守ってくれます。これは大活躍でした。
ここ数日嘔吐が続いていた時は腸閉塞を疑いつつも、看護師の聴診で腸が動いているので排便を期待していました。
少量の排便を見た時はホッとしましたが、今度は、緑色の泥状〜水様便が続きます。
胆汁が腸で吸収されずに排泄されている状態です。
緑色嘔吐の症状を合わせると、消化管が正常に働かなくなっています。
また消化液である水様便は2日も続くと、肛門周囲がただれ、表皮が剥けてきました。
褥瘡を作りたくないことはもちろんですが、オムツかぶれも同じです。
ひっきりなしに続く便、臀部の皮膚は常にそれに触れていることになります。
なんとかできないものかと考えていると、訪問看護の方が、提案くださいました。
ゲンタシン軟膏と亜鉛化軟膏で創部を覆うのです。
亜鉛化軟膏は油分が多く、ねっとりしていて、流水でもなかなか取れません。
通常なら薄く塗るのが適量なのでしょうが、看護師は、あえてたっぷり塗ることを助言くださいました。
目的は、便汁が直接肌に触れないためです。
さらに塗布薬剤の上を、カットした下着などの綿の端切れで覆うのです。
オムツで擦れたり、オムツのポリマーが薬効をダウンさせてしまうことを防ぎます。
それだけの効果でありません。
端切れと塗布薬で創部をラップするので、薬が長く留まります。
かつ、排尿や排便からの直接刺激を防いでくれます。
母が着慣れていた下着は柔らかくなっています。
それをハサミでカットし、たくさんの枚数をストックします。
オムツ交換の度に洗浄し、塗布、布ラップ治療を繰り返していると、徐々に改善してきました。
一般に低タンパクの身体では、劇的な治癒は期待できません。
それでも少しづつ良くなっていきています。
少なくても悪化はしていません。
どんな状態でも人に備わった治癒力があるのだと実感しました。