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2016・9・15 ダイジェスト版 レクリエーション介護士の日記念イベント
基調講演「レクリエーションの未来」 ~私は何をしたらいいのか~
状態が安定せず、意識があるうちに親戚や知人に合わせて良いという許可がでました。
全く食事を口にせず、しんどいと呟く母です。
確かにギャッジベッドで起こしても、すぐに寝かせて欲しいと返ってきます。
一方で、顔にパックをしたり、足浴や手浴をしている間は穏やかです。
気持ちが良いという反応で、普通の会話が展開します。
要するに、しんどそうな様子の中にも変化があるように感じたのです。
もしかして、在宅へ戻るなら今ではないか、そう感じた瞬間でした。
環境され整えれば、現在の点滴治療は、そのまま在宅ても実施が可能です。
環境とは、訪問看護と訪問診療の体制整備、訪問介護や訪問入浴の準備です。
そして何と言っても、最大の課題は、一人になる時間のカバーをどうするかです。
脳腫瘍増大によって状態悪化のスピードが早い以上、在宅で一人になる時間は避けたいものです。
ここがクリアしない以上、本人も帰りたいが不安もあります。
こんな時私は、いつも遠慮なくインフォーマルな力に感謝しつつ頼ります。
10秒先に住んでいるおばちゃんには、時々母をのぞいてやって欲しいと依頼済みです。
料理が上手な親しい方には、ご自分の夕食と同時に母の分も作り届けて欲しいと依頼済みです。
そしてこの思考の延長で、ふと思いついたのです。
若い頃から母を良く知っていて、現在お一人で暮らされている近しい方(Iさん)のことです。
私は、Iさんに電話をして、状況を説明して頼んだのです。
「しばらくの間、母のそばで一緒に過ごして欲しい」
二つ返事で、もちろん、何でもするよと、嬉しい言葉が返ってきました。
直ぐにでも飛んで行ってあげたいと言ってくれたのです。
本当にありがたいことです。
次の日に先生へ、在宅介護を希望する旨を伝えました。
一人になる心配もなく、サービスも整うことで、賛成してくださいました。
一つ気になるのは、食事を全く取らないのです。
すでに10日近く摂っていません。
お腹が空いた、空きすぎで眠れないと何度も繰り返します。
しかし、大好きだった食べ物を口にすると、泥を飲んでいるようにまずいと言います。
水を飲むのも苦そうな表情をするのです。
味覚障害が出ています。
そのため1日前からアミノ酸の点滴が1日2本追加されました。
末梢点滴であるため、2本で400キロカロリーがせいぜいです。
食べたくないのではなく、食べられないのです。
食べたくても、食べられない、知覚や味覚障害だとされています。
食べられないからエネルギーが枯渇する、体幹を保ちたい、皆んなと話したくても話せなくなるのではないか。
迷いながら、先生に相談したのはIVHです。
延命のためではなく、せっかく意識があり話せるなら、本人も楽しみにしている一時の時間を守りたい。
そんな気持ちがあったからです。
400キロカロリーが1000キロカロリーくらいには上がります。
実施する意味があるか?と迷いながら、検討のテーブルに上げておきたい、そんな気持ちでした。
IVHは、感染リスクがある。
母の疾患から、血栓になりやすい。
日常生活上、首からテープが貼られているのも違和感がある。
カロリーは足らないが、最低限は末梢から補っている。
これらを考えると、必要性は高くないだろうとの結論です。
その通りだと思い、その考えは取り消しました。
やはりこう話してみると、気持ちの整理がつきます。
一つひとつ納得です。
この夜、クッキーを一つだけ食べた時に顔を歪めなかったのです。
クッキーが甘いと言ってくれました。
母の可能性にかけようと思った瞬間です。
5日間の放射線治療後から3日が経過しています。
しんどさが軽減するどころか、明らかに症状が後退しています。
呂律が回りにくく、右手の動きが悪くなっていました。
右腕が痛いと言い始めました。
この症状は、船上での体調変化の兆候と同じです。
いわゆる脳浮腫が起こっていることを意味します。
CT検査の結果、脳腫瘍が拡大していたのです。
九州の撮影から3週間で、また脳腫瘍が大きくなっていました。
約5センチの腫瘍が頭の中を圧迫している症状でした。
5日ほど食事は食べてれいません。
今や、ベッドから起き上がることもできず、下肢筋力がありません。
端座位もできません。
「なんで、こんなにしんどいかな」
「もう死にたい」
これは、放射線の副作用とは違い、脳腫瘍の拡大の結果です。
先生からは、終末期の迎え方についてお話がありました。
積極的治療はしないという、母の思いを伝えました。
母は、以前から自分の意向を書き記しています。
父親を見送る時も、自分の最期の選択を私たち娘に繰り返していました。
痛みを取る、苦しみを取るための治療だけ行い、自然に任せて欲しいということです。
そのため、先生には、一点の迷いもなく、母の選択を尊重することを伝えました。
父を見送る時と同じです。
どうしようもなく寂しいけど、お互い大事にしたいところです。
このような状態でも家に帰れるのか?
私は、まだこの望みは捨てていません。
しかし、脳腫瘍増大の影響が大きければ、年末まで持つかさえ分かりません。
そのため先生もDNR(蘇生処置拒否)の意向の確認をされたのです。
科学的な視点では、身体機能、脳機能の診断から転倒リスクは明らかです。
明確なエビデンスがあります。
一方私の判断を駆り立てるものは、「本人が一番望むこと」です。
そこから逆算して検討に入ります。
これは、生きる治療です。
課題を解決する際、縦軸(状態を段階的に捉える)、横軸(時間経過)で考えます。
与えられた資源は何か?(介護保険や医療保険の適応範囲)
眠っている資源は何か?(近所の方へ協力を求める)
そして、本人のレベルを縦軸、横軸で見通します。
放射線治療前は、10秒ほど立位を保ちつつ、右腕は動かず、左足の力が入りにくい状態でした。
そこで、リハ担当にお願いして、馬蹄型でコロ付き歩行器を使っての移動をお願いしました。
しかし右側から崩れてきて難しい。
排泄行為は、壁に持たれパンツの着脱ができるかをチャレンジしてもらいました。
しかし、バランスが取れず立位でパンツの上げ下げはできません。
それなら、ベッドの横にポータブルを設置し、パンツの着脱をベッド上で可能か否か。
それでも無理なら、夜間一人の時間はオムツで対応、翌朝の訪問介護まで続きます。
これも、時間が経過するとレベルダウンしてくるので、単なる出発点です。
このように、ここから先は、微妙に変化する本人のレベルに合わせて、微調整を行なっていきます。
その時々で、必要不可欠な支援や工夫を繰り返すため、決して余裕はありません。
そのため、本人もその時々で、持ち得る力を最大限発揮するのです。
これが「自立支援」なのでしょう。
自立とは、本人が望む何かがあるから、自立行動に駆り立てられるのだと思います。
どんなレベルでも、本人の中に、苦しくても守りたい何かがあるなら、それを応援したい、家族としても専門家としてもそう思うのです。
放射線療法5日目が終了し、しんどさがピークに達しています。
「もう死にたい」
「しんどい」
そんな時
先生のこんな言葉が心の支えです。
「このしんどさは、必ず良くなりますからね」
この言葉で、指を折って数え始めるのです。
私たちのこんな言葉が希望を与えるのです。
「ママ、今日自宅を整理してきたよ」
「帰る準備してるからね」
「うん、家に帰りたい」
弱々しい声が、しっかりする瞬間です。
何のために、この辛い治療を選択したのかを再自覚するのです。
母の4回目の放射線の治療が終わりました。
残り1回、なんとか乗り切りたい。
別の場面で、看護師の方にも尋ねられました。
「在宅にお帰りになっても、夜は誰もいらっしゃらないんですよね?」
「お一人だと・・・・危ないのでは・・・」
安全の考えた場合、大多数の回答です。
とても心配して下さってのお言葉です。
私が専門家だと知らない人は、危険に気づかせてあげたい、と思われているかもしれません。
私が専門家だと知っている人は、「机上論で実際は難しいですよ」と声をかけたくなるかもしれません。
そう、私はこの道の専門家です。
リスクを言えと言われたら、いくらでも挙げられます。
毎日毎日、そのリスクと向き合っているからです。
それでも、私には一つの信念があります。
「それ以外の方法はないのか」
確かに、一人の時間は、ベッドから動けないことを意味します。
例えば、夜の10時から、翌朝の訪問介護が来るまで待てるかです。
リスクを避ける選択肢ではなく、リスクを包含する選択肢もあるということです。
王道の選択は、本人の何を守ろうとしているのかを考える必要があります。
リスクを取り除いた生活(施設や病院)は、母にとっては空虚な時間です。
一方、自分の歴史が刻まれた自宅は、身を置くだけで生きている意味が見出せます。
長年手入れした庭は何よりも憩いの空間です。
そこにあるのは、母の心が求める今までの日常の延長です。
生きるとは、日常です。
自分の様子が変わっても、心から深呼吸できる空間だけは変わりません。
沢山の人に支えられ、アドバイスを受け、本当に心強く感謝しかありません。
あとは、家族である私の役割として「決断」することです。
リスクだらけの母の生活をどう捉えるか。
事故があれば「ほらみたことか」と言われる覚悟を。
訪問して亡くなっているかもしれない衝撃を。