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2016・9・15 ダイジェスト版 レクリエーション介護士の日記念イベント
基調講演「レクリエーションの未来」 ~私は何をしたらいいのか~
船上でのメディカルセンターの医師、看護師の皆様
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ヘリで搬送くださった海上保安部の救命部隊の皆様
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救急車の関係者
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九州の病院の医師・看護師・MSWの皆様
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介護タクシーの皆様
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大阪の病院の医師・看護師・リハビリ・MSW・サポート等の皆様
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介護タクシーの方
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そして在宅介護を実現してくださった関係者の皆様
(訪問医療・訪問看護・ケアマネ・福祉用具・訪問介護・訪問入浴・薬局・在宅酸素)
ケアマネが、日々の介護サービスに偏りがでないよう、プランを組んでくれました。
この中で母の楽しみといえば、訪問入浴です。
お風呂が大好きな母に、どんな状態になっても入浴が提供できたことに感謝します。
こうして、皆様が繋いでくださった2ヶ月でした。
今回は医療が中心であっただけに、訪問看護と訪問医療の連携が鍵でした。
訪問医は、訪問看護が困らないよう置き薬、医療材料を準備されます。
先生は、訪問看護の方々のおかげて自分たちの仕事が成り立っているのだとおっしゃっていました。
要するに訪問看護師が何か気づいた時に、速やかに次の行動が取れるよう環境を整えているのです。
訪問看護師いわく、このクリニックの先生は、医療物品を揃えてくださるので動きやすいとのこと、この意味は私も良くわかります。
何事も準備で成功の可否が決まるものです。
初日に薬局の方が物品を運んでこられた時に実感しました。
この連携は、どの薬局でも取れるものではありません。
やはり、日頃から運営方法を共有され、クリニックの方針を理解されている薬局ならではです。
また訪問看護師は、気になったことを伝えるとすぐに指示がもらえるので助かると言われていました。
それもそのはず、気づく場面の多くは、在宅訪問した際です。
当然、滞在時間中に課題は解決したいものです。
そのため、すぐに連絡が取れる、返事が返ってくる体制は両者に必須です。
家族としても、何度かその場面に合いまいた。
その度に、すぐに折り返しの電話をいただけて、ありがたかったです。
医師が、訪問看護を連携のパートナーとして信頼している結果です。
一般的には、どの医師もそうかと言えば、難しいのも現実です。
だからこそ、関係者からの情報が大切なのです。
連携とは、自分がいない時に、自分以外の誰かが繋いでくれている現象です。
今回、この連携に私たち家族も入れた気がします。
家族なりに、先生や看護師の皆様に頼るばかりでなく、自分たちでできることは何かを考えました。
可能な限り、関係者の皆さんに協力できることを実行してみました。
こうして、一人ひとりが役割を担い、誰一人抜けても成立しなかったであろう、サービスがここにあったことを記しておきます。
ママの医療、全42回のシリーズを終わります。
医療者として、あるべき姿の在宅医療を実体験できたように思います、少しでも伝わるものがあれば幸いです。
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12月13日に退院し、1月2日までの21日間、60年近く住み慣れた自宅で最期を迎えました。
昨日までに、30人近い近所の方が弔問下さり、出棺を見送って頂きました。
その際、母との思い出話しを伺い、地域とともに井上家が形作られ、まさに私ども娘たちが地域の皆様に育てて頂いていたことを、改めて実感した次第です。
地域の繋がりが薄くなりがちな昨今ですが、まずは、○○自治会の皆様の温かいお心遣いに感謝申し上げます。
昨年3月、メラノーマという特殊なガンが、母の全身に転移していることを知りました。
元気で全く自覚症状がないだけに、本人の戸惑いはたとえようがなかったと思います。
昨日の通夜にご参列の皆様が抱かれていた、生前の母の印象も健康そのものだったようです。
それはまさに、私ども家族も同様です。
倒れるギリギリまで水泳に通い、毎週英語のレッスンを欠かしませんでした。
本人にとっては、これだけ元気なのに、死を確実に宣告されている状況です。
家族と離れるのが嫌だと本音を明かしてくれ、残される私達も同じだけ辛いことを打ち明けると、母は一つの答えを見つけたように、 自分らしく生きようと切り替えてくれました。
まさにその瞬間から「生き様」を、私ども家族に身をもって教え伝えてくれたのです。
そんな、母の「母らしさ」を、少しだけ触れさせてください。
それは、あらゆることに「感謝すること」と、そこで感じた素直な気持ちを言葉にして人に伝えることが大切だということ、これが母の教えでした。
その教えは、私たちが小さい頃から一貫しておりましたが、それを垣間見たのが今回の母の入院中です。
放射線療法の治療を受け、食事も水も一切受け付けない身体になっても、お世話をくださる看護師やリハビリの関係者の方々のお名前を書き残してほしいと再三言われました。
ちゃんとお礼状を書きたいと、つぶやくのです。
まさに母らしいと思った瞬間でした。
こうして母は自分で縁を導き、たくさんの方々と親しくさせていただき、自ら繋がりを紡いできたのだと思います。
母の携帯には、かつての職場やスポーツジムのお仲間、趣味で知り合った方々、旅行で出会った方、近所の方、バスの中で親しくなった方に至るまで、多くの方から新年の言葉が送られていました。
どの方も母とともに良き時間を過ごしてくださった心の仲間であり、改めて感謝申し上げます。
当初病気が発覚した時、父の介護の中心にいた母は、自分のことより残されるかもしれない父を気遣っていました。
家族思いの母は、病床でも料理番組を見ながら「退院したら作ってあげるね」と言ってくれるのです。
母の作る「おから」は我が家の秘伝の料理なのですが、今はそれを再現できるかが、私ども娘たちに残された宿題です。
孫の成長の一番の応援者も母でした。
自分の料理の味を受け継いでくれた孫は昨年結婚し、アイデアが豊かで様々なことにチャレンジする孫を自慢とし、それぞれの良さを見抜き全力で向き合う母でした。
孫が友達のように慕うはずです。
本日の母のメイクも、生前の母を蘇らせようと、孫たちが仕上げてくれました。
私ども娘にとって“元気だった母との別れ”という、例えようのない寂しさから救ってくれたのも、母が持つ天性の好奇心です。
病気の進行が早く、 楽しみにしていたクルージング旅行の日程を繰り上げ、11月5日に出発し、最初の3日間は夢のように充実した時間でした。
結果旅行中に救急搬送されたわけですが、途中で倒れてもクルージングに行けて良かったと、写真を眺めて何度も語ってくれました。
さらに「年末年始に婿がホテルを予約してくれた、絶対に行きたい」と意識がもうろうとする中、看護師に生きる次の目標を話すのです。
最後まで、全力で生き切ることを体現してみせてくれたのは、残される家族に後悔をさせない母の生き様です。
最期は、自宅の大好きな庭を眺めながら、家族の談笑に包まれ、ノンアルコールビールで喉越しを楽しみ、息を引き取るその瞬間を母のいとこと家族一同で見送ることが出来ました。
先生いわく、在宅介護でも、その瞬間に立ち会えるのは非常に珍しいとのことです。
瞼を閉じ、皆様との沢山の蘇る思い出を胸に、旅立ちました。
昨年5月父が他界し、この度は母です。
その二人が残してくれたものは、父の兄弟・親戚一同の絆の深さです。
母が、「あなた達に残していく財産だから大切にしなさい」 と言ってくれました。
これからもよろしくお願いします。
・・・・・・・・
父の時と同じ、葬儀会社です。
そのため、対応くださるメンバー全員、当時喪主を務めた母を覚えてくださっています。
良くしてもらったと、母がとても満足していたので、そこに依頼したことで目的達成です。
依頼する私も安心感が違います。
一言でいうと、馴染みの関係が、この安心を成立させてくれているように思います。
高齢者施設もそうですが、いざ必要になった時に急遽選ぶのと、日頃から知った場所や関係者がいるのとでは、利用する側の心の敷居の高さが違ってくるのだと思います。
改めて、近所の方が寄ってきたくなるような場作り、情報発信の大切さを痛感します。
実は、今月1月22日は母の誕生日でした。
私自身は、ここにきて様々な手続き書類を、何度も書いているはずですが、ピンときていませんでした。
そんな時に、葬儀の担当者の方が初日の帰り際、今月はお母様の誕生日ですねと、お言葉とお気持ちをくださいました。
確かに!と、通夜で頭がいっぱいだった私たちに、大事な日を思い出せてくれました。
その夜は献杯をしつつ、みんなでその話題に触れることができました。
葬儀といえば、スケジュールに追われがちです。
湯灌後の母のメイクの時間は、1時間15分を要しました。
妹が、こちらから尋ねるまで、湯灌の担当者も葬儀会社の方々も、時間について話題にされなかったことを振り返っていました。
そう言われると、出棺前の最後のお別れの時間もそうでした。
親族だけの時間をいただけたのですが、私の印象では、長い時間特別な空間に身を置けた感覚が残っています。
もちろん、その後火葬の予定時間があるので、タイムリミットはあるはずです。
どちらも、それを感じさせないよう、時間の質がフォーカスされています。
出棺前、母を知ってくださった皆さんが母と父に心の贈り物をくださいました。
一つは阪神タイガースが好きだった父に最新のニュースを備えてくださいました。
確かに、私たちの世界と父のいる世界を繋ぐ唯一の人物は、目の前にいる母です。
そして母が好きな食(そば・とうふ)を思い出させてくださいました。
不思議です。
私も妹も聞かれていませんが正解です。
ここにもきっと、母らしい交流の広がりがあったのだと感じました。
父の葬儀で、喪主である母から頼まれ私が読み上げた弔辞があります。
それを母は、上手に父親を現しているとよろこんでくれていました。
飾ることなく、私の中の父をそのまま表現しただけです。
今回、母についても同じです。
私の中の母を、言葉で綴り直してみました。
次の第41回に書かせていただきました。
母の感想が聞きたいな・・・ふと思いました。
母は、父の葬儀後も、弔辞の文面をお心を寄せてくださった方々へ送っていました。
今回私も、母の携帯情報の関係者へ、年賀状の住所へと、可能な限り発信・送付をさせていただきました。
すると多くの方々から、生前の母の様子をお知らせくださるメールを頂いたのです。
その文面を一つ一つ読みながら、再度”母らしい母”と出会うことができました。
葬儀という儀式を通して、残された私たちが納得し、今後も歩み続けられるよう、後押ししてくれているのだと実感しました。
関係くださった全ての方々へ感謝申し上げます。
実は、昨年5月に父が亡くなったばかりです。
その時に母が取った数々の行動をそのまま再現していこうと思いました。
当時母は、父をどうしても一度自宅に連れて帰りたいと希望しました。
動脈瘤に亀裂が生じ、緊急入院して5日後に旅たった父でした。
”長年住んだ地域の方とお別れがしたいだろう”、母が想像した父の心境です。
帰宅後に母は、近所の方に向け回覧を作りました。
そこには、父がひと時戻ってきたこと、気軽にのぞいて欲しい旨が書かれています。
その結果は、パパの介護【第15回 地域の皆様との「絆」】に書いた通りです。
母は、1月2日に亡くなりました。
葬儀担当者は、最短で3日通夜、4日の葬儀日程が可能だと言ってくれました。
葬儀を組む上で、ボトルネックになるのは火葬場の利用状況です。
しかし私は、4日通夜、5日葬儀を希望しました。
翌日3日は、1日ゆっくりと近所の方にいらしていただきたかったのです。
母が作成した文面を再現し、近所に回覧しました。
結果、近所の親しい方が次々と訪れてくれます。
顔をなで、涙し、思い出話を語ってくれます。
中には、何十年前に引っ越してきた時から世話になったと、泣いて教えてくれます。
訪問くださったみなさんが、口を揃えて驚かれたことがあります。
「あれ綺麗なお母さんね」
「生前と変わらないやん、生きているみたい」
と言ってくれます。
実は前夜遅くに、孫たちとメイクやウィッグにメッシュを入れ、服装も母が気に入って着ていた衣装に着替えさせていたのです。
きっと母が望んでいるだろうことを実現しました。
葬儀会館は、父と同じところを選択しました。
父が亡くなる前に、母が自分で見学に行って決めていたところでした。
パパの介護【第16回17回 満足感に満ちた葬儀(前半・後半)】に書いた通りです。
当時の心のこもった対応は今でも忘れていません。
そのため、一般に抱きやすい、葬儀会社に対する不安はありませんでした。
それだけでも、今回喪主を務める私にとっては救いです。
母が最初に会場を決めた理由がいくつかあります。
①近所であること
②外観も葬儀会場らしくないこと
③内装も新しく綺麗であること
④家族も宿泊し一晩一緒に父を偲べそうなこと
父の時と同じ、親戚と会場に宿泊しアルコールを飲みながら語り合いました。
そこは、母と私たちだけの空間です。
「そういえば、父の葬儀の夜に宿泊したメンバーって誰だった?」
「もう一人いたよね」
「うん、いたね」
「誰だっけ?」
「あなたのお母さんやん」
そう、母はほんの7か月前、ここで一緒に飲み、偲んでいた側にいたのです。
今はその母が、祭壇の前で寝ています。
思い浮かべた思考の空間に母はいなかったのです。
私はこれを認識した瞬間に、時空を行き来する複雑な気持ちになりました。
そうです。
あの時、この場で、母も私もここまでの想像が出来ていませんでした。
私の時はね・・・と冗談を言う母を交わす程度、まだ自分たち事ではなかったのです。
葬儀の打ち合わせでは、一言「父と同じコースにしてください」でした。
コースを選んだのも母です。
祭壇の花は、できるだけ華やかに、葬儀らしくならないようにと伝えました。
母が言った通りの言葉に加え、母が常に葬儀色の強いお花は好きではない、もっと明るく華やかな方が良いと言っていたことを伝えました。
結果、父よりもより女性らしく華やかに仕上げてくださいました。
参列者が、お花が綺麗、この方がいいねとおっしゃられていました。
フォトフレームの色は白、棺の柄も白地の刺繍、骨壷は小サイズ。
写真は父の遺影にもなったペア写真、母が生前から自身が気に入ってた写真です。
何もかも父の葬儀に真似て進めるだけです。
父の時に実施した、湯灌の儀式も母が経験し感じた通りです。
「湯灌っていいね」
「気持ちが洗われるようやわ」
「やって良かった、お父さん気持ちよさそう」
この母の言葉を思い出しながら、湯灌の儀式を見ていました。
きっと納得してくれていると思います。
一つだけ父と違うのは、湯灌後のメイクへのこだわりです。
メイクは自分たちでやりたいこと、時間がかかるだろうことを伝えていましたが、結果は1時間15分かかりました。
肌の色も綺麗、目の下も窪んでいない、ヘアスタイルはメッシュを強調し、かなり母らしくなってきました。
ただ一つ気になる点は、時間の経過と共に、口元が開くのです。
良く見ていると、首の角度で顔の表情も変わります。
棺に横たわるのに、少し高い枕が設定されているのです。
そのため、私たちは母の肩の下にバスタオルなどを敷いて胸と同じ高さにします。
それでも納得できる仕上がりではありません。
生前の母ではない、ああだの、こうだの・・・
口紅を塗っては取り、輪郭を広げてみたりと・・・・
同じく、湯灌担当の方にも、綿を活用いただき工夫を重ねます。
そして、最後に思いついた奥の手で、生前の母の表情を取り戻しました。
これは、母には最期まで綺麗でいて欲しいと願う娘と孫たちの共同作業です。
最後までお湯灌の担当者の方が私どもに寄り添っていただけたことに感謝します。
参列のお返しの中に入れる「感謝の言葉」も手作りです。
葬儀のパッケージの一つに、インタビューし文面作成までのサービスがあります。
しかし父の時に、私がインタビューを受け出来上がった内容を読んで、しっくりこないと言いました。
母は、葬儀らしすぎる、極端な文章は必要ないとのことでした。
もっと自分のことばで、平易で素直に表現したいと自ら全て書き直しました。
その経験があったので、今回はインタビューを受けず、私が内容を作成しました。
「感謝の言葉」
・・・(省略)
長い間、地域・自治会はじめ、プライベートでご縁を頂いた皆様には本当にお世話になりました。故人は私達家族にとっても太陽のように明るく、我が家の象徴でした。「井上さんの笑顔が素敵」とおっしゃって下さる方も少なくなく、自慢の母でした。母の教えは「感謝する心」です。いつも関わりのある皆様との時間を尊いと申しておりました。この教えは孫にも引き継がれ、我が家の信念として延々に続いていくことでしょう。
病気と向き合い懸命に生き切る選択をした母は、旅先で急変するまで走り切った人生でした。最期の2週間は、自宅の大好きな庭を眺め、医療・介護サービスに支えられ、家族一同が見守る中、静かに目を閉じました。私どもは今、全てのコトや人にお礼を言いたい、そんな気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。
・・・(省略)
母はこれで納得してくれているでしょうか。
父の葬儀中は、生まれ故郷からお声がかかり、父が「ふるさとについて」語った講演ビデオを流しました。
それを見た母が、参列者が立ち止まり、会話になり、父のことが伝わって嬉しいと言ってたのを思い出します。
母については、孫がたくさんの旅行写真やショートムービーを繋いだビデオを流してくれました。
やはり、そこには人が立ち止まり、母の新たな一面を語ってくださる方々がいました。
倒れる直前までの楽しそうなクルージング旅行の写真を見て、皆さん想像がつかない、行けて良かったねとおっしゃってくださいました。
続きは後半へ