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2016・9・15 ダイジェスト版 レクリエーション介護士の日記念イベント
基調講演「レクリエーションの未来」 ~私は何をしたらいいのか~
18日(水)、19日(木)、本日20日(金)全く眠りから醒めない母です。
食事も水分も全く取れない状態です。
日中に点滴1500CC入っているのが救いです。
点滴の滴下をゆっくりと時間をかけてもらうことにしました。
夜は私がロックします。
頻回に舌ブラシで口腔ケアを実施します。
クリアクリーンやアズノールを水で薄めて舌ブラシでマッサージします。
カンジダの薬ファンギソンシロップを塗布したり、口腔内ジェルで保湿します。
300円ショップで購入した、小さな加湿器を口元に設置します。
顔はフェイスパックで保湿し、乳液で仕上げます。
これくらいしか、してあげることがありません。
尿量は順調、血中酸素濃度も93%〜95%取れており、呼吸抑制もなさそうです。
「ママ、起きて」
呼びかけても、とにかくすやすや寝続けています。
20日早朝4時、ゴボっと緑色吐物を嘔吐しました。
幸い、顔を横に向けていたので、誤嚥は避けれました。
血圧160代、血中酸素濃度は93〜95%。
9時オムツ交換で1回、13時オムツ交換で1回、体の向きを変えるたびに嘔吐します。
夜20時は、静かに寝ていても嘔吐します。
胆汁が胃に逆流している状態です。
臭い匂いが嫌いな母です。
私が寝たきりになったら、陰部洗浄だけはちゃんとやってねと言われていました。
そのため、こんな時も清拭し、口腔ケアを続けます。
ほんの少し開眼するようになってきました。
「ママ、わかったら手を握って」
握り返すことはありませんが、指が少し動いているように感じます。
14時に訪問医がこられ、母の様子を伝えてくれます。
「オプソを使わなければ良かったのでしょうか?」
選択した私の後悔です。
「薬の効用は終えているはず、やはり全身状態の低下でしょう」
幸い、母の痛みが抑えれれていることに注目くださいました。
「眉間に皺もよってないので、ご本人はしんどくないのでは」
何かあっても、病院には戻らない選択を共有させていただきました。
病院に行けばチューブを挿入し、胃の内容物を除去するでしょう。
点滴が入らなければ、IVH(中心静脈栄養)という選択手段も出てきます。
しかし、今の母にとってその行為は、意味をなしません。
そう思うと、改めて家に帰ってきて良かったと思えるのです。
「先生、在宅に帰ってきて良かったです」
「今、ここが病院ではなくて良かったです」
「このまま在宅で家族の声が聞こえるこの空間で」
水が一口も飲めなかった12月6日に在宅を希望し、13日に退院しました。
13日〜17日は、在宅での思い出を家族全員が体感しました。
もちろん母もです。
もし、良くなった段階で退院を決めていたら、私の後悔は大きかったと思います。
1週間ずれていたら、本日が退院日となっていた可能性があったのです。
意識がある間に帰ってきたことが何よりです。
確かに帰宅後、夜だけ感じてた痛みが夕方、さらには昼間も出始めていました。
ふと、今一度、母の書いていたメモを読み返しました。
帰宅後母にも見せたら、書いたのを覚えていたのです。
氏名○○○○
私が回復不可能、意識不明の場合、苦痛除去を除いては延命治療は辞退いたします。
平成二十九年八月七日 ○○○○(印)
吸入の酸素マスク、痛み除去希望、口頭で言葉が話せること、短命危険があっても痛み止め優先をお願いします。
○○○○(印)
この文面にはっきりと書かれています。
痛みを取る、我慢させない、これが母から言われていたことです。
全身にがんが転移し、痛く無いはずはありません。
私たちとの時間も大切ですが、それは痛みの無い状態であるべきはずです。
今、穏やかな母の寝顔とこの手書きのメモが、私の気持ちを救ってくれたのです。
まるで、それでいいのよと、語ってくれるように・・・
19日午前中にエアマットへ変更し、20日午前中に在宅酸素が加わりました。
点滴による体のむくみはありません。
尿量も出ています。
嘔吐が続いているので、胃液もそれなりに溜まっているのでしょう。
あまり続くようなら、輸液量を少し抑える方が楽かもしれません。
血管が取れなくなれば、皮下点滴が良いかもしれません。
血管は休ませれば、また取れる可能性もあります。
医師や訪問看護師の優しさのこもった一つひとつの言葉に、家族がどれだけ支えられるかを身を持って感じます。
最後まで、わずかな選択肢を提示し続けてくれます。
今、私たち家族は、在宅での看取りという特殊な時間のゾーンにいます。
そこでは、とにかく母の意志に答え続けるだけです。
ともに過ごしてくださるIさんが夕飯を作ってくれます。
この日は、湯豆腐とつみれ、ひじき、卵焼きです。
この日だけ車椅子で鍋を囲みました。
元気なころ、豆腐が好きだった母です。
病院食をほとんど食べませんでしたが、馴染みの味に反応してくれます。
帰って来れて良かった、庭が懐かしいと喜んでいます。
この夜、私が帰宅後、Iさんから電話がありました。
「痛い、しんどい、ルミ子はまだか〜」とうなり出したようです。
シャワーを浴び戻るように準備していたら、寝入ったそうです。
この日は朝まで、グッスリでした。
きっと病院でも、夜はこんな様子だったのだろうと想像します。
今は、知った者が側にいるだけに安心しているようです。
朝食は、ロールパン・ハム・温泉卵、少しコーヒー
いわゆる、今までの朝食です。
夕食は、けんちん汁、ほうれん草のおひたし胡麻和え、白ごはん、らっきょです。
これまた、母の好きなラインナップです。
同郷のシンパシーをIさんから感じます。
また、自分が漬けたらっきょが美味しいと話してくれます。
らっきょの入った皿を自分で持ち汁を飲みます。
「おいしい?」
「うん」
「まだ飲む?」
「うん」
もう一度、汁だけ入れてきて渡すと全て飲み干しました。
どんなに病気でも、その人にとって食べたいものがあるんだと実感した瞬間です。
この日、孫がひ孫を連れて訪れてくれて、とてもうれしそうでした。
家族が増えたのを見届ける母の実感が伝わってきます。
唯一動く左手で、ひ孫の頭を撫でながら、その眼差しは優しさに溢れていました。
唯一無二のおばあちゃんの顔です。
夜は、寝させてあげたいとプロマゼパム坐薬3mg1本使用しました。
Iさんいわく、豪快なイビキをかいて1度も起きなかったそうです。
朝食は、おかゆ、温泉卵、らっきょ、ひじきです。
昼食は、うどん。
夜は、肉じゃが、カレイ干物(焼き)、ほうれん草卵とじ、ご飯、ポテトサラダ
私たち家族がノンアルコールビールを缶で飲んでいると、
「それ何、ビール?」
「そうだよ」
「ん?飲みたい」
「うん、飲みたい」
ストローで水を飲むのに介助しながら一苦労のレベルです。
しかし、グラスにビールを注ぐと、自分から飲むのです。
冷たいビールをコップ1杯飲みました。
ビールという雰囲気が、食を進めている感じです。
Iさんが、庭のもみじの枝をカットして1輪飾ってくれています。
前日の眠剤が効いているのか、起こすと目を差ますが、また寝入る状態です。
そのため、この日は薬を見送ることにしました。
うとうとは長くは続かず、この日の夜は断続的に目ざめ、痛い、しんどいを繰り返したそうです。
12時、1時半、4時、5時、7時、それぞれ15分ほど続き寝入るそうです。
朝食は、ロールパン、ポテトサラダサンド、ヨーグルト、温泉卵
夕食は、白菜・油揚げ・天ぷら煮、肉じゃが(残り)、味醂干し(焼き)、ポテトサラダ
かつての父の会社の社員さんが、11月に送った父の喪中ハガキを見て訪ねてきてくれました。
母の状態を知って驚かれたようです。
母は懐かしいと、ずっと手を握って嬉しそうだったそうです。
Iさんが、庭に咲いた寒椿を1輪飾ってくれてます。
この日は、プロマゼパム坐薬3mg半分を使いました。
この日は、坐薬が効いておらず断続的に起きてしんどさを訴えたそうです。
朝食は、ロールパン(少し)、ポテトサラダ(多め)
ポテトサラダに手が伸びたそうです。
夕食は、肉じゃが(知人の方が持参)、白菜の煮物、ポテトサラダ、ごはん、のり、しそ昆布
昼間もしんどさ、気だるさがあるのか、時々訴えますが、話しかけるとそちらに意識が向く感じです。
「ママ、ビール飲む?」
「うん」
「晩酌しようか、乾杯」
ビールは舌先でなく喉で飲むと言っていた母です。
喉越しが良いのか、自らグイグイと飲むのです。
それにつられ、開口一番食べたくないといいながらも、この日は一番ご飯を食べてくれました。
夕食後、突然、痛みを訴え始めます。
いつもなら、口腔ケアを嫌がらない母が、やらせてくれません。
とりあえず、なんとか口をゆすぎ、ベッドを平らにします。
「痛い、だるい」
「どこが」
「わからん」
薬局へ電話し、在宅に置いてある薬の薬効を確認します。
在宅医が11種類の貼り薬、飲み薬、坐薬の鎮静剤系を準備してくれています。
解熱剤を除くと、痛み止めは麻薬や連続的に使用し続ける薬に絞られます。
その中で、頓用でオプソ内服液(モルヒネ)を飲ませました。
頓用なので、必要に応じて飲む薬です。
しばらくすると痛みが無くなったようです。
穏やかに眠り始めます。
13日、介護タクシー(寝台車)に迎えられ病院を後にします。
「お母さん、慕われてたんですね」
「エレベーター前まで多くの看護師の方々が見送りにいらしてましたね」
「あれ、当たり前ではないですよ」
その言葉を聞いてよぎりました。
病状が悪化し理解力が低下しても、周囲に感謝し、褒める母。
前頭野の脳腫瘍が大きくなると性格が変わってしまうと言われて気にしていた母でしたが、最後まで母らしさが優ったようです。
さて、久しぶりの我が家です。
家の匂い、庭の木漏れ日、父の遺影、帰ってこれたことにホッとした様子です。
「やっぱり家がいい」
嬉しい言葉が返ってきました。
一月間、動きがない冷たい空気の実家でしたが、生活という時間が帰ってきました。
家も人が住むことで喜んでいるのがわかります。
1番に訪問介護とケアマネがいらしてくださいました。
重なるように訪問看護の方もです。
追って在宅医が到着され開口一番の一言。
「点滴が手に入りました」
「これだけ望まれているのに、出来ませんとは言いたくなかったんですよ」
この先生にお願いして本当に良かったと改めて感じ入りました。
どこまでも家族とともに”コト”を見つめようとされるその姿勢に、これから頑張れそうだと思えたのです。
看取りまで請け負う一大プロジェクトです。
薬局、訪問入浴を含めると15人ほどの人が関係されます。
この方々のおかげで、家族が家族らしくいれるのです。
近所の知り合いの方々が、顔を見に来てくれます。
親しい方が、肉じゃがを作って持って来てくれます。
何よりも依頼していた近しい方Iさんは大活躍です。
小さいころから、母と知り合いです。
鳥取の田舎で過ごした思い出話があります。
その方が作る手料理はまさに母の好きな田舎料理です。
美味しいこと。
食べ物の嗜好がそっくりで驚くほどです。
病院食を食べなかった母ですが、在宅へ戻り食べるようになってきました。
介護する私ども姉妹の心の癒しでもある郷土の味は、食卓の話題に花が咲きます。
食べながら、ワイワイガヤガヤ、私たちが話している姿を母は見ているのです。
母の見えるところで、お料理もしてくます。
料理番組を欠かさずに見ていた料理好きの母は、その手元をじっと見ています。
家族だけでは出せない母の力です。
訪問介護:月〜金(午前・午後)祝日も実施
訪問看護:月〜日(午前・午後)点滴なので365日
訪問リハビリ:火曜日・金曜日
訪問入浴:土曜日
訪問診療:月2回以上状態に合わせて
薬局:末期に合わせたオーダーにそって麻薬など頓用薬を持参(いつでも対応できるように)
今の家族の願い
排便が座ってできるといいな
年末年始にホテルで過ごしたいな(往復介護タクシー・ホテルでは私が対応)
ここに来て3段階目くらいのレベルダウンでやや平行線です。
あきらめない、これは我が家のポリシーです。
11月10日
ヘリで九州の病院へ搬送。状態がどんどん悪化。
11月12日
大阪の病院へ移送。3日後には点滴で改善し、立位が少し保てるほどに回復。
この頃にケアマネへ連絡し、在宅復帰の希望を伝える。
11月23日-29日
放射線療法開始(5回クール)
2回目以降でみるみる状態が悪化。
副作用か?
副作用なら一時的なので良くなるはず。
12月2日
治療後1週間くらい過ぎると良くなるとのことで、在宅介護の調整のため訪問看護へ挨拶にいく。
1人目の在宅医へ打診。
12月3日
さらにレベルダウン。
CT検査にて脳腫瘍の増大を確認。
先生からは、最期の蘇生の意向を確認される。
(ベスト・サポーティブ・ケア(BSC)、がんに対する積極的な治療は行わず、症状の緩和や生活の質(QOL)の向上を目的とした医療行為)
病院で最期を迎えるのか?何かがスッキリしない。
12月4日
出張先の帰り、考えに考え、在宅に戻るなら最後のタイミングと再自覚する。
昨日のレベルでは移動するだけでリスクか?そんなことを考えながら病院へ寄る。
少しだけ水が飲めた母の反応を見て、”今だ!”と心が決まる。
12月5日
知り合いのおばちゃんに電話連絡し、しばらく母と一緒に住んでくれるよう依頼し快諾。
その後主治医へ申し出ると在宅サービスが整うならその方が良いと承諾。
希望は1週間後の12日か13日。
同時にケアマネと訪問看護に退院に向けた協力を依頼。
病院のソーシャルワーカー(MSW)にも意向を伝える。
12月6日
2人目の在宅医へ打診。
12月9日
急な退院希望日に対応が可能な在宅医を求め、3人目、4人目の在宅医へ同時に打診。
3人目の在宅医が承諾くださり、12日退院前カンファレンス、13日退院日となる。
残り1週間という短期間にもかかわらず、ソーシャルワーカーがコーディネートしてくださいました。
今回、ケアマネと訪問看護は、父の時にお世話になった事業所へ依頼させていただきました。
しかし在宅医は、改めて見つける必要があります。
訪問看護から情報をいただき、ソーシャルワーカーから在宅医の申請をしてくださいました。
退院前日にカンファレンスを持ちました。
主治医から入院に至る経緯と現在の病状の説明をされます。
それを受けて在宅医からは、在宅でできる治療についての説明がありました。
ケアマネは、午前中の訪問介護(月〜金)、訪問入浴(週1回)、福祉用具(前日搬送済み)について説明されました。
訪問看護と訪問介護の訪問が少しズレるように打ち合わせされ、午後の訪問介護も追加で手配くださいました。
両者とも午前と午後に1回づつ訪問くださいます。
まさにそれぞれの専門家がパズルにピースを持ち寄って、全体の絵を仕上げていくのです。
また家族としては、今実施されている点滴を在宅でも継続したい旨をお伝えしました。
在宅医は、一度薬局に聞いてみると即行動してくださいました。
まず調べてみようとしてくださるその姿勢に信頼が感じられました。
退院前カンファレンスの意義は、各専門家にとっては、自分の分野以外の専門情報を補うことのできる時間です。
とくに医療を携え在宅へ戻る上で欠かせないのは、医療の方針です。
在宅医がどのような人なのか、家族の思いをどのように受け止め、医療方針を持たれるのか、ここを知ることがとても重要です。
次に、訪問看護、ケアマネ、リハビリが共有することで、それぞれの役割、立ち回りを確認でき無理・ムラ・ムダのないフォーメーションが目指せます。
そして何より、家族の意向を参加者が同じトーンで理解しておくことで、今後の病状の変化にそれぞれの立場で支える体制が準備できます。
今回私は、実家の片づけをしている時に、母の記載メモ(押印あり)を見つけました。
そして関係者に見ていただきました。
氏名○○○○
私が回復不可能、意識不明の場合、苦痛除去を除いては延命治療は辞退いたします。
平成二十九年八月七日 ○○○○(印)
吸入の酸素マスク、痛み除去希望、口頭で言葉が話せること、短命危険があっても痛み止め優先をお願いします。
○○○○(印)
この頃から、考えていたんだ、母の思いの強さを実感いたします。