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2016・9・15 ダイジェスト版 レクリエーション介護士の日記念イベント
基調講演「レクリエーションの未来」 ~私は何をしたらいいのか~
5日後のクルージング旅行を楽しみにしていた母が消極的になっていきます。
クルージング旅行の楽しみといえば、食事やパーティですが、人前でご飯を食べる姿を見せたくないと感じています。
2ヶ月前、メラノーマの進行が早いことが発覚し、旅行の計画を早めた時は、何不自由なく動け、食欲旺盛だったわけです。
もう少しという直前に、右手指の麻痺が出現、日に日に症状が悪化し、物を掴んでいる感覚がなくなっています。
お箸を5回も6回も落とします。
腕まで痺れがきているようです。
今まさに、現実的な対応策が必要だと感じました。
京都にある障害者用のお箸を開発し、取り扱っているお店の情報をキャッチしました。
普段は見過ごす情報も、自分ゴトとなると目に止まるものです。
そして藁をも掴む思いでお店に電話しました。
話を聞くと、症状に合わせてアドバイスしてくださることがわかり、即、母を連れていきたいと思いました。
しかし翌日土曜日は予定があり日曜日、祝日(月)と定休日が続き、火曜日は旅行の出発日です。
その事情を店主に相談すると、祝日午前中にお店を開けて下さる提案をくださいました。
どれだけありがたかったことか・・・
症状に合わせた数種類の箸を試しました。
日常使いの箸、菜箸と購入しました。
母もこれなら使えるかもと一安心の表情を浮かべていました。
しかし結局、右手を使うことにはかなりの困難があります。
腕そのものを意識して動かせば、大きな動きはできます。
しかし、動いても指令が届いていないようで思うように動作しません。
手指なら尚更です。
自分の手とは思えない、掴んでいるつもりが掴めないとのことです。
握力はあるが、指先には指令がいかないようです。
そのため、つるん、つるんとお箸やスプーンが抜けてしまいます。
そこで購入した箸を、左手で使うようにしました。
お箸が使えるだけでもありがたいことです。
今までのように、動いているようで動いていない腕と指です。
しっかりと手を見て、動かすことへ集中しないと動いてくれません。
”手を開く” ”掴む”の指示出すと、何とか、何とか動くが、的も外れます。
せいの、よいしょ、どっこいしょ、私の掛け声で何度もチャレンジします。
半分泣き笑い、情けないし、こっけいだし、そんな母によいしょと声かけしている私との二人三脚です。
母
「パパが見てたら、そうやろ〜って言うやろな」
私
「なんて?」
母
「パパがなった者にしか分からんと、そうせかすなと」
私
「そう」
母
「今やから分かる」
「できない自分が情けない」
私
「でもパパは、自分の姿を惨めだとか情けないと定義してなかったよ」
「これも自分やと」
「受け入れて堂々としてた」
「だから、自分が自分らしくあるために、人に頼ることも厭わなかったよ」
母
「うん、そうやね」
私
「パパなら言うよ、それも受け入れてママらしくと」
母
「ほんまやね、捉え方やね」
10月28日は、治療薬キイトルーダへ変更して3回目の注射日。
血液検査も順調と先生。
しかし、1週間ほど前から、母に気になる症状が出てきました。
それは、右手の指先の感覚が鈍って、掴んだ物が落ちるのです。
先生いわく、両腕なら薬の副作用も考えられますが、非対称の症状なので考えにくいとのことです。
脳神経外科の受診もできますが、どうしますかと聞かれ、母がもう少し様子をみるとのことでした。
日に日に動きが悪くなってきました。
お箸やスプーンが握れず、ストン、ストンと落ちてしまいます。
診察時は1~2回だった現象が、5日経過した今で5~6回です。
握っているつもりでも、コップに手が届いていません。
コップの手前で手を動かしていますが、後10㎝向こうにコップの取っ手があります。
そう、今までの感覚で指を伸ばしているつもりですが、指は曲がったままです。
「指が開いてないよ」
「え?」
開いてるつもりなのにと本人
そして意識すると開くのです。
「ボタンが留められない、20分かかったの」
「右手の自分の指が邪魔してたの、左手で触って気づいた」
「あれ、もう1本お箸がないわ」
右手で持っていたのですが、握っていることに気づかないのです。
「プールで泳いだら分かった、右腕の前腕からしびれてる」
「クロールすると、右腕が少し遅れている」
治療薬の影響か、疾患の影響か、症状というオマケがやってきました。
どちらにしろ、優先順位は治療であり、疾患なら今の現実が丸ごと母親だということです。
症状が出た際に、人はいろいろな反応を示します。
「どうしたのと声をかける人」
「気の毒がって励ましてくれる人」
「気づかない振りでそっとしておく人」などなど
私はというと、
「あれ、まただね」と笑って受け止めました。
母も私に釣られ、情けなさの向こうにある、笑うしかないよねに反応。
「そうなの」と笑って緊張が解けてきます。
深刻に考えても、状況は変わりません。
それなら、今の母でいい、症状は冗談やなぞなぞのような存在。
避けるわけでもなく、さりとて卑下するわけでもなく、母の一部。
「昔は白魚のようなきれいな手で、皆に褒められたのに」
「先生も思わず綺麗だと握ってきたのに、こんなに曲がっちゃって」
「へ~昔良い思いをしたんだ」
「だったら人生帳尻が合って、プラス、マイナスゼロになるもんよ」
「十分恩恵を被った訳だからね」
それを聞いてまた母が笑います。
そう、今が一番良いのです。
「いい、お箸を持つ前に意識して手を開ける、そして握る」
そしたら握れるでしょう。
「大きな野菜は私が切ったり、カットするからね」
「大きなものは移動させるからね」
急がず、私がくる夜を待ってね。
「水泳は行って泳いできてね」
神経への伝達をたやさないようにね。
今の母にしてあげることは何か?
私はご飯を食べるのが、超絶早いのです。
一方、母はお箸が使えず、今までの倍の時間を要します。
それを見て私のとった行動はというと、左手で箸を使ってみたのです。
何とも不便で、母のイライラや苦労が分かります。
母が
「あんた、何してんの?」
「いや、難しいな」
「何があってもいいように、練習しとこと思って」
母が、笑いながら
「難しいやろ」
「うん、全然できないわ」
そして、同じくらいのペースで夕飯を終えるのです。
乳房転移をうけて、治療薬をオプシーボからキイトルーダという点滴薬に変更しました。
副作用を恐れてギリギリまで消極的な母。
「薬を変えて副作用が出たら旅行に行けなくなる」
「今やったら、まだ行けるのに」
先生曰く、
「オプシーボで今の状態に抑えられているかもしれない」
「しかし効いているかと言われたら? 別の種類の薬でチャンスがあるならそれにチャレンジするのも一つ」
「これ以上の治療もあるがおススメしない、これなら適応だと思います」
貴方たちどう思う?
「私は、副作用の可能性が少なく、かつ、せっかく打つなら効果を期待できる方が良い」
せっかく治療をするなら、効果的にと思う娘の気持ちを受け止め、新たな薬に変更しました。
薬を変えても、今のところ副作用が出ていません。
親子3人で仙台旅行。
母は、妹も行くとは思ってもおらず、娘二人と行けるとなると、心が躍ると嬉しそうです。
空港到着後、レンタカーで一路日本三景松島めぐりと国宝.瑞厳寺へ。
翌日は、平泉の中尊寺,弁慶堂、本堂、金色堂、白山神社を巡りました。
奥州藤原氏の本拠地であり、源義経、弁慶の主従終焉の地。以前に訪れた事のある母が詳しく解説してくれます。
最終日は、蔵の町並み村田町へ。室町,江戸の商人の活気が伝わってくるようです。
建造物の説明を受け、鳥取の町並みに似てると懐かしんでいました。
夜は、牛タン、生牡蠣、ワイン、シャンパン、日本酒、何でも美味しいと堪能してくれる母。
「あ~1日でも長く、あなたたちと過ごしていたい」
旅行中は、見るもの聞くものが全て新鮮。
疲れも、喜びです。
そう、話すと笑うの繰り返しです。
免疫療法ってまさにこれだ!と思います。
私達家族が出来ることは、まだまだ母に眠っている元気さを発揮してもらうこと。
私と、母の病気との勝負は続きます。
オプシーボの治療5回が終了し、副作用もなくホッとしていたこの時期です。
母は、ちょっと気になってることがあると、治療日ではない日に受診をしてきました。
左胸の表面に、コロコロと硬いものが触れ、検査の為、切開して取ることになりました。
それから1週間、本日は、妹と2人で検査に立ち会いました。
切除後の説明で、断面が黒っぽいことを告げられました。
やっぱり・・・
「検査に出してみないと断定はできませんが、おそらく転移でしょう」
「オプシーボが効いてないのか、もしくは効いているからこのスピードで済んでいるのかは、わかりません」
「結果によっては、薬を変える方法もあります」
母は、どういうと少し理解出来ていない様子でした。
「進んでいるってことですか?}
「そうとも言えます」
「先生、来年までもちませんか?」
「来年、娘とクルージングの日本一周旅行に申し込んだんです、4月です」
「ん~何とも言えないところです」
「そうですか・・・」
「がんが進んできたら、痛くなるの?私痛いのは嫌」
「出来るだけ、痛くないようにしますね」
「皮膚科だけでなく、緩和ケアの先生とも連携していきます」
私自身が、現実感のない感覚で、先生のお話を聞いていました。
それは、母でも同じことでしょう。
そのため、今診察室で交わされている会話は、これからどうなっていくの?の一色です。
どちらかといえば、それしか会話する内容が見当たらない、何かしゃべっていたい、そんな気分でした。
到底、生きる意味を考える時間にはなりません。
細胞診の結果を待たずして、おそらく黒色腫の転移に間違いないだろうことを知りました。
母の気持ちを思いつつも、動かせない現実に、私はどのような言葉をかけるのだろう。
「しかたないね」とつぶやく母。
さすがにまだ来年は、生きているような・・・私の気持ち?願望?
専門家であるはずの私ですが、いまだにそのように感じるほど、今の母は今まで通りです。
こっから、何がどう変化するのだろう?
急激に変化してくるのか?
沢山のケースに関わってきたものの、描き切れない私がいます。
冷静に理性的に捉えているのですが、どうしてもピンとこないのです。
父の時は、循環器の疾患で、CTを撮る度に瘤が拡張し、本人を含め家族みんなが覚悟するという時間がありました。父は、来るときが来たら仕方がないと達観していました。
きっと、父が生きていたら、父がかける言葉こそが、何よりその道に立っている者として、本日の母の励みになった事と思います。
今の母が、どれだけ落ち込んでいることか・・・
そして、人が誰もが通過するプロセスなのだと、改めて実感しています。
そんなことを考えつつ、気づいたら、旅行会社へ電話をしていました。
来年の4月のクルージング旅行日を、急遽この11月に変更していました。
私の時間のやりくりは何とかできる、でも母のタイムリミットは何ともできない。
おのずと、答えは出てきます。
㋈も仙台旅行を入れました。
楽しみや目標があれば、こころに占める内容が違ってくると。
そう、私ができることは、母のこころに占める時間を、病気のことではなく、楽しいこと、家族のことで制覇することです。
私と病気との勝負に挑みます。