テーマ1 ママの医療

【第23回】クルージング旅行(ヘリコプター救急搬送編)

母へ説明

「しんどい」

「寒い」

抗生剤など含む点滴がなされ、室温調整しながら、対応くださいました。
バルーンが入ります。

「今から、九州の方へ救急搬送されるからね」
「大丈夫だからね」

ヘリが到着するま2時間半ほどありました。
私自身の準備が必要です。
医療スタッフの方へ、私自身が昼ごはんを食べ、荷造りをしてくることを伝えました。

部屋で荷造りをしていると、内線電話が鳴ります。
ヘリコプターは患者一人しか乗れないこと、荷物は最小限にして欲しいとのことでした。
その意味は、後から分かったのです。

この船には、ヘリポートがありません。
そのため、ヘリコプターがホバリングしながら、患者を釣り上げ機内に引き込んで行きます。
これでは、私が乗れる訳がないなと実感しました。
しかも、母の荷物も救助隊の方のリュックに背負うのです。
最小限の重量ということです。

医療者の連携と搬送

ヘリコプターから、ロープを使って2名の救助隊員が降りてきました。

母に向かって
「もう大丈夫ですよ」
「わかりますか?」
「今から準備をしますからね」

周囲を見渡し
「日本語の話せる医療者はいらっしゃいますか」
「様子を聞かせてください」
日本人の看護師から申し送りを受けます。

組み立て式の担架をセットし始めます。
速やかに形になっていくのです。

待っている間ヘリコプターは、船の周りを旋回しています。
現場では、医師2名、看護師他4名ほど、旅行関係のスタッフの方々で対応くださっています。

担架の準備が出来上がりました。
「担架に乗せます」
「手伝ってください」
「1、2、3」

母がストレッチャーから、床上の担架に移りました。
雨風を避けるため、シッパー付きの大きな保護袋に入ったのです。

「締めますよ」
「苦しくありませんか」

その間にヘリコプターが定位置にスタンバイしてくれました。
「では、6人で運びます」
「皆さん、手伝ってください」

少し霧雨が降る甲板に母が移動して行きます。
ホバリングしたヘリコプターに合図しながら、母と救急隊1名が、吊り上がっていきます。
もしもの事故に備えて、サイドでは、消火隊メンバーが消火ホームを抱えた万全の体制です。

担架がやや縦長の姿勢で、母が徐々に登っていきヘリコプター入口、中へと消えて行きます。
次に下で待ち受けていた隊員が、全ての荷物を片付け合図をして引き上げて行きます。

隊員が乗り込み、機体の扉が閉まり、一路日本列島、九州方面へと飛んで行きます。
だんだん小さくなるヘリコプターを最後まで見送り、感謝と同時にホッとしたのを覚えています。

母の記憶

後から母に聞いてみました。

大枠の一連の流れは覚えているが、ところどころ記憶が混在しています。
部屋で倒れたことは、あまり記憶にありません。
部屋に看護師が駆けつけてくれたことは、ややうる覚えです。
医務室で点滴やバルーン治療を受け、私がヘリコプターに乗れなないと聞こえたのは覚えていたようです。

しっかり覚えているのは、ヘリコプターの中での会話だったようです。

「もう安心ですよ」
「今から搬送するからね」
「もう大丈夫ですよ」
「2名が付いていますからね」

「そお言って、ずっと声をかけてくださったのよ」
「あれが、どれだけ心強かったことか」

「ヘリコプターを降りてから救急車に乗ったの?」

「ん〜そうかな、多分」

「その時はしんどくなかったの?」

「その時はもう安心してたからね」
「助かるものやと思ってたから」

残された私

私は、後から駆けつけることになります。
さりとて、次の日はチェジュ島で、最短で翌々日の鹿児島港での下船です。

母が搬送された九州の病院には、妹が駆けつけてくれました。
その夜を含め、3日早朝には大阪搬送が決まりました。
そのため、私は、鹿児島港から鹿児島空港、大阪空港、大阪の搬送先の病院へ向かうことになったのです。

ふと、母のいない部屋で一人過ごします。
デッキから見上げる夜空は、数日前と変わりません。

でも明らかに変わったのは、母の病気の症状が現れたことです。
そして、この部屋に母がいないことです。

ぼっかりと穴が空いたようで、寂しさが押し寄せてきます。
父親が亡くなった時に感じた感覚です。

でも母はまだ生きています。
明後日には会えます。
だったら、この思いをかき消すほど、ラストスパートを悔いなく走り切ろうと思ったのです。
まだチャンスがある、そう思うことにしました。

【第24回】病院と病院の連携